東京高等裁判所 昭和59年(う)896号 判決 1986年8月26日
本籍《省略》
住居《省略》
土工 甲野五郎
昭和一七年六月一四日生
右の者に対する建造物等以外放火、殺人、同未遂被告事件について、昭和五九年四月二四日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し、検察官及び原審弁護人から各適法な控訴の申立があったので、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件各控訴を棄却する。
理由
一 検察官の控訴趣意について
検察官の本件控訴の趣意は、東京高等検察庁検察官検事市川道雄の提出した東京地方検察庁検察官検事吉永祐介作成の控訴趣意書に記載されているとおりであり、これに対する答弁は、弁護人後藤孝典、同内山成樹、同平野和己、同安田好弘が連名で提出した答弁書に記載されているとおりであるから、これらを引用する。
1 事実誤認及び法令適用の誤りの主張について
所論は、要するに、原判決は「被告人は知能が精神薄弱軽愚級にあって精神的成熟に劣るうえ、本件犯行時被害・追跡妄想を抱いており、著しくではないとしても飲酒酩酊の状態にあった」旨及び「本件犯行の動機は世間に対する憤まんの情が一気に昂じ、このうっ憤を晴らそうとしたことにあるが、このような動機が形成されるについては、被告人に被害・追跡妄想があったがため、これを持たない者が感じるのと比較して、他人の言動をより一層被害的に受け取り、その経験した一連の不快な出来事により『馬鹿にされた。』と感じて立腹し、世間に対して恨みや憤りの感情を持ったことが主たる要因となっており、その意味からすれば、被害・追跡妄想という精神障害と本件犯行の動機形成との間には本質的に重要な関連性がある」旨認定した上、本件犯行の動機たる前記のような「情動興奮は酒の酔いが手伝って一気に昂じ、精神的成熟に劣る被告人に強度の影響を与え、被告人はその影響を受けて本件犯行に及んだもので、本件犯行時是非善悪を弁識しそれに従って行動する能力が著しく低下していた」旨認定し、刑法三九条二項を適用したけれども、被告人の知能程度は通常人に劣るところはないうえ、被告人が病的体験(被害・追跡妄想)を有していたとは認められず、本件犯行の動機、犯行時及びその前後の行動に照らしても、被告人の責任能力に疑問とするところはなく、被告人は本件犯行時完全な責任能力を有していたことが明らかであるから、原判決は事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤ったものである、というのである。
しかしながら、原審が取り調べた関係証拠によると、被告人の本件犯行時の責任能力に関する原判決の右認定は被告人の知能程度や病的体験の有無等を含めて正当として肯認することができ、このことは当審における事実取調べの結果によっても左右されるところはない。以下所論に関し付説する。
(一) 被告人の知能程度に関する主張について
所論は、要するに、原判決が被告人の知能程度を軽愚級の精神薄弱に相当する旨認定し、これを被告人の本件犯行時の精神状態認定の一根拠としたけれども、WAIS知能検査における被告人の「全知能検査指数六九」という原審福島鑑定(福島章作成の鑑定書及び同人の原審における供述を以下福島鑑定と略称する。)の数値は信用性が疑わしい上、被告人の日常の生活、仕事あるいは自動車運転免許を取得して運転技量にも特に問題がなかったことなどの面から考察しても、被告人の知能程度は軽愚級の精神薄弱とは認められない、というのである。
しかしながら、原判決も説示するように、福島鑑定は、学校教育の不足や被検者の態度などが検査結果に及ぼす影響を考慮に入れた上で、全検査知能指数六九をおおよその基準として取り扱っているのであって、右数値を絶対視しているわけではなく、被告人の生活史、面接所見及びWAIS知能診断検査以外にも、脳研式知能検査の結果が正常下位と精神薄弱の境界域の値を示していること、その他HTP描画テスト、ロールシャッハテストでも知能が低いことを推定させる所見が得られたことをも総合して被告人の知能程度を軽愚級の精神薄弱と判断したものであることが認められるし、被告人の生活史が本件犯行時まで肉体作業等の未熟練労働のみに従事し、しかも稼働先を転々とするなどしてきたものであることは原審が取り調べた関係証拠により認めることができ、当審で取り調べた被告人の元雇主であるKの供述によると、被告人は昭和五四年三月一三日から同年一〇月一三日まで下水道管の敷設作業の際の手元として稼働したものであるが、手元の仕事内容は自ら考え判断することを要するものではなく、班長等の指示に従って行動する単純作業に過ぎないことが認められ、これは被告人が従来肉体作業等の未熟練労働のみに従事してきたとの右認定に符合するのであって、右のような被告人の生活史も被告人の知能程度判定の一根拠となるとする福島鑑定に特段疑問とするところはない。
運転免許についても、当審における事実取調べの結果によると、被告人は昭和四三年一二月二〇日、同月二三日の二回にわたり法令の試験結果が合格点に達せず、不合格となり、同月二四日第三回目の試験でようやく合格したことが認められるが、ここで被告人の知能程度を問題とするのは、原判決も指摘するように、知能の程度が物事に対する判断、感情コントロール、人格の成熟発展などの場面で大きな影響を与えるという見地からであり、この点について当審で取り調べた保崎秀夫作成の鑑定書(以下、保崎鑑定という。)も同様の意味で被告人は日常生活で理解力も十分とは言い難く、社会場面での常識性にも乏しく、判断力も不適切になりがちであることを指摘していることに鑑みると、被告人が運転免許を取得したことやその運転技量の点(原審記録により明らかなように被告人が比較的短い運転期間内に二回交通違反により罰金刑に処せられていることからすると、運転技量に問題がなかったとは即断し難い。)などを理由に被告人の知能程度に関する原判決の認定が誤っていると言うことはできない。
また、原審で取り調べた被告人の元雇主らの供述によると、被告人は、概ね仕事、作業に関して黙々と働く(但し、いずれも単純な労働である。)が、同僚とも融け合わず、雇主が所定の給与以外の金銭を与えてもこれを突き返すなどその行動全体には偏倚な傾向があったことが認められ、当審証人Kも被告人は作業が真面目で現場責任者の報告に基づいて賃金も遂次上昇させていたことを供述している反面、被告人は寮での生活や作業の休憩時間などにおける同僚との間の疎通性に欠ける面があること、他人に顔を見られるのを避けるような仕草があることなどを供述しており、この点は被告人に疎通性の欠如があるとの福島鑑定の指摘をも裏付けている。以上のような事実からみると、被告人が通常人と異ならない日常生活を送ってきたとする所論を全面的には採用することができない。
(二) 被告人の病的体験の有無に関する主張について
所論は、要するに、原判決は被告人の病的体験に関する供述と福島鑑定及び逸見鑑定(逸見武光作成の二通の鑑定書と同人の原審における供述を以下逸見鑑定と略称する。)とを総合して、本件当時被告人に被害・追跡妄想が存在したものと認定し、これを被告人の本件犯行時の精神状態認定の一根拠としたけれども、被告人は捜査段階において取調官に対し病的体験について供述しておらず、被告人の原審公判供述及び逸見、福島両鑑定人に対する供述は、自己の刑責を免れ又は軽減することを意図した作為的なもので信用性がなく、右のように信用性のない被告人の供述に依拠する右各鑑定も採用できず、結局被告人に被害・追跡妄想があったと認定した原判決は事実を誤認したものである、というのである。
そこで、原審記録を調査して検討するのに、原判決がその挙示する証拠によって被告人に被害・追跡妄想があったと判示しているところは、当事者の主張に対する判断の項において被告人の病的体験の有無につき詳細に説示している事実関係及びこれに対する判断とともに正当として肯認することができ、従って、所論が失当であることは原判決が詳説しているところに尽きるのであるが、所論に鑑み付説するに、被告人が捜査段階において既に病的体験について供述していると認められることは原判決が説示するとおりである上、被告人の元雇主や近親者らの原審における供述によると、被告人は雇主に対し突然「警察関係の人は来ますか。若い衆が警察の話をしているから注意して下さい。」などと訳のわからないことを言ったこと、被告人の同僚がスーパーに置き忘れて警察署に保管されていた自転車について雇主が被告人に対し「警察に自転車を取りに行って来い。」と命じたところ、被告人は翌日から二日間勤めを休み、そのまま稼働先を辞めたこと、被告人が岩国市在住の次兄の妻に電話した際、同女から「帰って来い。」と言われると、「(自分を)テレビで捜しよるから、警察で捜しよるから、帰られん。」と答えたことなどが認められ、これらの事実は被告人がその供述するとおり現にいくつもの稼働先を無断で飛び出して各地を転々としていた事実と併せて、被告人の病的体験に関する供述の信用性を裏付けるものであるし、当審保崎鑑定も被告人との面接ないし元雇主らの供述等に基づき被告人に被害妄想の出没があったことを肯認しているのであって、病的体験の存在に関する原判決の認定に誤りがあるとは言えない。
なお、所論は、原判決が被告人の妄想形成のきっかけとなった心理的原因である罪責感、恥辱感、負い目、後悔などが心の負担となっていた旨認定したことに対し、これを認めるに足りる証拠はないと主張するけれども、原審で取り調べた被告人の近親者(その供述の信用性に疑問はない。)及び元雇主らの供述を検討すると、その供述の中には妻が精神病を発病して入院し、次いで離婚のやむなきに至ったことについて悩んでいる被告人の姿や自己が同じく精神病院に入院したことを体裁が悪いとして極度に恥じ、そのために岩国などに寄り付こうとしない被告人の姿、子供を養護施設に寄託して世話になっていることについての負い目、反面自己が一人前でないとの思いの裏返しとして近親者を含め他人の世話・好意をかたくなに拒否する姿、岩国警察署、徳山児童相談所へ送金したり、自己がテレビで捜されていると思い込んだり、警察署への用向きを依頼されると、突然勤務先を辞めたり、あるいは内に閉じこもり、他人・同僚に融け込まない姿が多く語られていて、これらの事実は原審が認定した被告人に罪責感、恥辱感、負い目など心の負担となることが存したことを推認させるものであり、また同時に福島鑑定の同様に指摘するところを裏付けるとも言えるものであって、右鑑定が信用できない被告人の供述等に基づく不当な判断であるとか、認定するに足りる証拠がないという所論は採用できないところである。
(三) 被告人の犯行動機、犯行時及びその前後の行動態様からみた責任能力の主張について
所論は、要するに、本件は養護施設に長男を預けて一人で土工として働いていた被告人がいずれ同児を引き取って世帯を持つことを期待しながらも、福祉事務所担当者からの指導とはうらはらに、酒を断たず、同児に対する満足な送金もできないことなどから焦躁感を募らせ、かつ、新宿界隈等で野宿するなどして生活を続けているうちに、自らの境遇から世間をすね、更に度重なる不愉快な出来事を経験して世間に対する反発を強め、何か大きなことをしてうっ憤を晴らそうと考え、本件犯行の四日前にバス放火を思い立ち、ガソリンを購入したものの、実行をちゅうちょして日を過ごすうちにも不愉快な出来事に会い、ますます世間に対する反発を強め、うっ積させていた感情を一気に爆発させた結果犯した犯行であって、その動機は通常人の行為として十分了解可能であり、被告人自らも本件犯行の動機に関し具体的に妄想と関連づけた供述をしていないことなどからしても、本件犯行の動機が妄想と無関係であることは明らかであって、被害・追跡妄想という精神障害と本件犯行の動機形成に本質的に重要な関連性があるとした原判決の認定は誤りであり、また、本件犯行を決意するや一時に大量のガソリンを撤くのに適した容器を捜しに行ってバケツを入手し、放火の実行に際しては、まずバス後部降車口内へ火のついている新聞紙を投げ入れ、次いでバケツ内のガソリンを一気に振り撒き、本件犯行後直ちに右バス付近から逃走し、逮捕直後及び捜査の初期の段階で自己の刑責を免れようと努めるなど、被告人の本件犯行状況、犯行前後の諸言動に徴すると、被告人は本件犯行時通常人と何ら異なるところのない認識能力及び行動能力を有し、かつ、本件犯行の罪質、結果及び刑責の各重大性を自覚しながら、あえて本件犯行に及んだものであることが明らかである、というのである。
そこで、被告人が本件バスに放火するまでの経緯を検討するに、被告人の捜査官に対する各供述調書等によると、被告人は、昭和五五年八月一三日夜、有限会社C工務店を出たあと、新宿方面の簡易宿泊所に一泊し、同月一四日夜、別に旅館を捜すため国鉄新宿駅付近で通行人に尋ねたところ、「高い旅館なら知っている。」などと自己を馬鹿にするようなことを言われ、また、同月一五日午前、京王百貨店入口脇の地下街に降りる階段の途中に座って大声を発していたところを同百貨店の関係者らしい者に注意されてその場を追われ、次いで、近くの路上で再び大声を上げたところを通行人から「うるさいぞ。」などと注意されたことがあって、世間から浮浪者として扱われ、馬鹿にされているとの憤まんを募らせ、どこか火をつけて世間を驚かそうと考えて同日ガソリンを買い(所論は、被告人がバスに放火することを念頭においてガソリンを購入した旨主張するが、この点につき原判決が被告人の供述を検討した上でガソリン購入時にはまだバスへの放火までを考えたものでないことを判示するところは正当である。従ってバス放火を考えてガソリンを購入したことを前提に原判決を論難する所論は採用できない。)、これを前記百貨店西側道路中央分離帯の植え込みに隠し、同月一七日にはこれを持って地下街付近を歩いたものの、用いるまでには至らず、前記植え込みに戻して同月一八日から八王子市の高尾山方面へ出かけたが、同月一九日朝、私鉄京王線高尾駅で通りがかりの中年女性から何か腹の立つようなことを言われ、あるいは、同日午前同駅付近の禁漁の立札のある川で魚釣りをしているところを地元の者から注意されるなどしたあと、同一九日夜、国鉄新宿駅に戻って同駅売店で清酒一合入りアルミ缶二本位を買って、うち一本を飲んだ上、同日午後八時ころ、先に預けておいた衣類等在中の手提袋を取り出すため、新宿西口地下街のコインロッカー設置場所に行ったところ、既に使用期限の三日間が経過し、管理人において右の手提袋を倉庫に保管替えするとともに、コインロッカーの錠を取り替え、別人が荷物を入れていたので、自己の所持していた鍵ではこれを開けることができず、しばらく管理人を尋ね歩いたもののその所在が分らないまま再度コインロッカーの所に戻ってみると、今度はそれが開いていて、自己の預けた手提袋が見当らなかったところから、またも馬鹿にされたものと腹を立て、京王百貨店西側道路を横切って、先にガソリン入りのポリエチレン製容器を隠しておいた中央分離帯の植え込みに入り、残りの缶入り清酒一合を飲みながら、目の前の同百貨店西側バス停留所から発着する乗合バスを見ているうち、右のコインロッカーの件に加えて、前記C工務店を出たあとの通行人から高い旅館なら知っていると言われたことや、大声を上げたところを注意されたこと等一連の不快な出来事も思い出され、酒の酔いもあって、世間が自己を馬鹿にしているなどと憤まんの情が一気に昂じ、右のバス停留所から発着する乗合バスにガソリンを撒いて放火し、このうっ憤を晴らそうと決意して本件犯行に及んだこと、以上原判決が認定説示するとおりの事実が認められる。
ところで、右のような不快な出来事があるにしても、バスに放火するということは異常な行動と言うべきところ、原判決は関係証拠に基づき、前記のような動機が形成されたのは被告人に被害・追跡妄想があったがため、これを持たない者が感じるのと比較して他人の言動を一層被害的に受け取り、その経験した一連の不快な出来事により「馬鹿にされた。」と感じて立腹し、世間に対して恨みや憤りの感情を持ったことが主たる要因となっており、その意味では、被害・追跡妄想という精神障害と本件犯行の動機形成との間には本質的に重要な関連性があるとした上で、右の情動興奮は酒の勢いも手伝って一気に昂じ、精神的成熟に劣る被告人に強度の影響を与え、被告人はその影響を受けて本件犯行に及び、本件犯行時是非善悪を弁識しそれに従って行動する能力が著しく低下していたと認定しているものであって、右認定は本件犯行を世間の人々に対するうっ憤晴らしとして行ったという動機の形成犯行に至るまでの被告人の心理的・精神的状態を無理なく説明するものとして人を納得させるに足りるとともに、当審で取り調べた保崎鑑定が飲酒によって回りの出来事を被害的にとる傾向が強まり、被害妄想と相俟って犯行に追い立てられたとしていることからも肯認できる(なお、同鑑定は被告人に緩徐に経過した人格のくずれの少ない精神病罹患の可能性を指摘している)。
所論は、この点につき、被告人には被害・追跡妄想は認められない上、被告人は本件犯行の動機について具体的に妄想と関連づけた供述をしていないことなどからして、本件犯行の動機と妄想とは無関係である旨縷々主張するけれども、被告人に本件当時妄想が存在したことは前記のとおりであるし、被告人の妄想はそれ自体が本件犯行の動機となったというものではなく、前述したような意味で本件の動機形成に関連性が肯認されるというものであるから、被告人自らが右のような関連性について具体的な供述をしているかどうかを問題とする所論は失当であって、採用できない。
次に、本件犯行の態様とその前後の被告人の行動を検討するに、原審が取り調べた関係証拠によると、被告人は本件犯行の少し前、京王百貨店西側道路の中央分離帯の植え込みに入って、清酒を飲んだりしながら、目の前の同百貨店西側バス停留所から発着する乗合バスを見ていたが、そのうちに、ガソリン撒布に適する容器を捜すため右の植え込みを出て、国鉄新宿駅西口周辺を歩き回り、東京都新宿区西新宿一丁目二番六号ゲームセンター「プレイボックス」横にあった容量約八リットルのブリキ製バケツを見付けてこれを同植え込みに持ち帰り、先に植え込み内に隠しておいたポリエチレン製容器からガソリン約三・八リットルを右バケツに移し替え、更に付近に落ちていた新聞紙を丸めて所携のライターでこれに点火した上、ガソリン入りのバケツを右手に下げ、火の付いた新聞紙を左手に持ちながら、車道部分を横断して本件バスに近づき、その後方から左側に回り、「馬鹿野郎。なめやがって。」と怒号しつつ、本件バスの開放されていた幅約八八センチメートルの後部降車口から火の付いている新聞紙を内部床上に投げ入れ、続いて、バケツ内のガソリンを右新聞紙付近に投げ掛けるように振り撒いて爆発的にこれを炎上させ、その後は直ちに現場を離れて、前記の中央分離帯の植え込みに戻り、そこに置いていた自己の荷物を携帯して反対側の車道部分を横切り逃走を図ったが、車道を渡り終った辺りで通行人に逮捕されたこと、その際、逮捕者に対して本件犯行を否認し、更に近くの交番まで連行されて、警察官から毛髪が焦げている点を追及されると、「山でめしを食うため焚火をした。」と嘘を言い、当日の午後一〇時一〇分ころ、警視庁新宿警察署において、弁解の機会を与えられたときにも、これと同様の弁解をしたほか、午後一一時一〇分ころ、警察官から酔いの程度を調べるための呼気テストを求められたのに対し、「風船なんかふくらませるか。俺は交通違反ではない。」と応答していることなど原判決が認定説示するとおりの事実が認められるが、この一連の行動と、本件犯行の動機形成について被害・追跡妄想が存在し、そのため被告人が一連の不快な出来事をより大きく被害的に受け止め、もって馬鹿にされたと感じて憤まんを抱き、これが更に酒の勢いで一気に昂じ、被告人に強い影響を与えたとする認定と矛盾するものとは言えない。
その他縷説の所論に鑑み関係証拠を調査検討しても、原判決に所論のいうような事実の誤認ないし法令の適用の誤りは見当らず、所論は採用できない。論旨は理由がない。
2 量刑不当の主張について
所論は、要するに、原判決が被告人を無期懲役に処する旨言い渡したのは、本件犯行の罪質、動機、態様、特に殺害の手段方法の残虐性、その結果及び社会的影響の重大さ等に加え、被告人が本件犯行時心神耗弱の状態になかったことに鑑みると、量刑極めて軽きに失して不当であり、被告人に対しては極刑をもって処断するのが相当である、というのである。
しかしながら、被告人が本件犯行時心神耗弱の状態にあったと認められることは前述したとおりであるから、本件は法律上減軽すべき場合であり、原判決は所定刑中死刑を選択してこれに減軽を施し所論のいう如き本件犯情に鑑み無期懲役にしたものであって、これが不当であるとは言えない。論旨は理由がない。
二 弁護人の控訴趣意について
弁護人の本件控訴の趣意は、弁護人後藤孝典が提出した控訴趣意書及び弁護人後藤孝典、同内山成樹、同平野和己、同安田好弘が連名で提出した控訴趣意補充書に記載されているとおりであり、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官検事市川道雄が提出した答弁書に記載されているとおりであるから、これらを引用する。
1 事実誤認及び法令適用の誤りの主張について
所論は、要するに、原判決は被告人に対し殺人、同未遂、建造物等以外放火の各罪の成立を認め、本件犯行時被告人が心神耗弱の状態にあったとして刑法三九条二項を適用したけれども、右判決は本件犯行の動機、本件バス放火の計画性、本件バス放火の故意の発生時期、本件バスの乗客らの現在についての被告人の認識の有無及び本件犯行時の被告人の責任能力の有無について事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤ったものである、というのである。
しかしながら、原審が取り調べた関係証拠によると、説示部分を含む原判決の認定判断は正当として肯認することができ、右認定判断は当審における事実取調べの結果によっても左右されるべきところはない。以下所論に関し付説する。
(一) 本件犯行の動機に関する事実誤認の主張について
所論は、要するに、原判決は本件犯行の動機について、本件犯行直前に遭遇したコインロッカーの件で馬鹿にされたと感じて立腹しているところに、従前の一連の不快な出来事が思い起こされ、酒の酔いも手伝い、ひどく興奮して憤まんの情が一気に昂じ、これを晴らそうとして本件犯行に及んだものと認定したが、原判決の判示する一連の不快な出来事は被告人の妄想に過ぎないか、あるいはその存在自体や日時が疑わしい上、仮に存在するとしても、およそ人をして世間に対する憤まんの情を抱かせるに足りるものではなく、原判示右動機は被告人の日頃のパーソナリティとも著しく乖離していて失当であり、被告人は、自己の主観的世界の産物たる「福祉」に対して反撃しようとして本件犯行に及んだというのが真相である、というのである。
しかしながら、一連の不快な出来事の存否等についての所論は、原審段階と同一の主張をするものであって、これについては原判決が証拠を挙示し適切に認定しているとおりである(なお、被告人の捜査官に対する各供述調書のうち、捜査によって証拠が発見収集された以後の分は、それら証拠を基に被告人を誘導して作成されたもので信用性がない旨主張する所論は採用できない)。
しかして、昭和五五年八月一三日以降のコインロッカーの件等一連の事件により被告人が抱いた不快感の背景には被害・追跡妄想が存在し、本件動機の形成と妄想とは本質的に重要な関連性を有し、しかも、被告人の情動興奮は酒の勢いも手伝って一気に昂じ、精神的成熟に劣る被告人に強度の影響を与え、被告人はその影響を受けて本件犯行に及んだとみるべきことは前記のとおりであって、右一連の出来事のみをとらえてこれが被告人をして本件犯行に走らせるに足りないとする所論は失当であり、また、犯行の動機やその形成過程を含めて被告人の本件犯行時の心理・精神状態を右のように認定することが所論のいう被告人の日頃のパーソナリティと乖離するものとは考えられない。また、本件犯行をもって「福祉」に対する反撃であるとする所論は、後記のように、被告人が本件バスの存在とその乗客らの現在を認識しながら、あえて放火に及んだ本件犯行の態様等に照らして到底採ることができない。
(二) 本件バスの計画性に関する事実誤認の主張について
所論は、要するに、被告人は本件ガソリンをC工務店に手土産として持参するために購入したものであり、右購入後ガソリンを京王百貨店西側道路中央分離帯の植え込みに置いてからは、本件犯行時までに右ガソリンを持ち出したり、持ち歩いたりしたことはないのに、原判決がどこかに火をつける目的でガソリンを購入し、後日犯行時までに右ガソリンを持って国鉄新宿駅の地下街等をぶらついたりしたと認定したのは事実を誤認したものである、というのである。
しかしながら、ガソリン購入に関する原判決の認定判断はその挙示する証拠からすべて正当として肯認することができるのであって、C工務店への手土産として本件ガソリンを購入したとの被告人の原審供述が不自然で信用できず、どこかに放火する目的で右ガソリンを購入したとする被告人の捜査官に対する供述調書が信用できることは原判決が適切に説示するとおりであり、被告人が地下街を本件ガソリンを持ち歩いた点も原審における証人Yが供述するところであって、その証言は目撃した日時、場所、ポリエチレン製容器の形状、そのガソリンの容量、被告人の所持品等につき的確であるうえ、同女は自ら捜査機関に出頭して目撃状況を供述していることからして信用性は十分である。所論は採用できない。
(三) 本件バス放火の故意の発生時期及び殺意に関する事実誤認並びに法令適用の誤りの主張について
所論は、要するに、被告人の本件所為は被告人がその内的世界の産物たる「福祉」に対して反撃したものに外ならず、被告人は当時「福祉」による妄想支配と全身疲弊とアルコールの影響により意識障害に陥っており、意識を混濁させた状態で意識を「福祉」に狭縮させ、外界に対する認知能力を欠如していたものであって、本件バス最後部降車口に至って初めて本件バスの存在を認識したに過ぎず、そのバスの中に乗客が現在することを予見または認識しなかったものであるのに、原判決が被告人は本件バスの存在を事前に認識し、更には乗客らの現在を認識していた旨認定したのは事実を誤認したもので、ひいては法令の適用を誤っている、というのである。
しかしながら、検察官の所論に対する判断の項(一1(三))で認定した前叙のような本件犯行の態様及び犯行前後の被告人の行動などからすると、被告人は犯行時本件バスの存在及び乗客らの現在を認識する能力を有していたと認められ、これと関係証拠から認められるように、被告人がガソリンをバケツに入れ替えた地点から本件バスまでの距離は二〇数メートルに過ぎず、その間に何らの障害物がないこと、本件バスは、本件犯行の数分前から京王百貨店西側バス停留所に車内燈をつけて停止していて、三十数名の乗客が断続的にこれに乗車し、犯行時には満席となって、立っている乗客も三名位いたこと、被告人は火の付いた新聞紙とガソリンを持って本件バスに近づき、車体の後部を回って降車口にこれを投げ入れており、しかも、被告人が本件バス左側に回った時点ではその三か所の乗降口がすべて開放されていて、車内の乗客らがよく見える状態にあったことなどを併せ考えると、本件バスの存在と乗客らの現在を認識していた旨の被告人の捜査段階における供述は信用することができるとした原判決の認定は正当であって、この点の所論は採用できず(当審で取り調べた被告人発信の葉書二通中の、バスに乗客がいることは知らなかった旨の記載は信用できず、右認定を左右するものではない。)、また、右のように被告人は本件バスの存在はもとよりその乗客らの現在をも認識しながらあえて本件放火に及んでいることからしても本件犯行をもって「福祉」への反撃とする縷説の所論は採用できない。
(四) 責任能力に関する事実誤認及び法令適用の誤りの主張について
所論は、要するに、被告人は本件行為時被害・追跡妄想に支配され、肉体的・精神的極限状態に陥り、かかる状態にアルコールの作用が加わり、「福祉」への反撃に意識が集中して意識狭縮に陥り、他者の生命・身体の危険を認識する能力はもとより、自己の生命・身体の危険を認識する能力をも喪失した状態にあり、かかる状態で本件犯行を行なったもので、心神喪失にあったと言うべきであるのに、原判決が被告人は本件犯行時心神耗弱の状態にあったと認定し、刑法三九条二項を適用したのは事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤ったものである、というのである。
しかしながら、右所論については原判決がその挙示する証拠によって適切に認定判断しているところであり、前叙のとおり犯行の態様とその後の言動が合目的的であって、原審における福島鑑定、逸見鑑定はもとより、当審で取り調べた保崎鑑定の鑑定結果も被告人は本件犯行時是非善悪を弁識しそれに従って行動する能力を全く欠いていたことはないとしていることを総合してみると、結局のところ、被告人は本件犯行時心神耗弱の状態にあったと認めるのが相当であって、所論は採用できない。その他縷説の所論に鑑み関係証拠を調査検討しても、原判決に所論のいうような事実の誤認ないし法令の適用の誤りは見当らない。論旨は理由がない。
2 量刑不当の主張について
所論は、要するに、原判決が殺人及び同未遂の所為につき、その殺意を未必の故意と認定しながら、所定刑中最高刑たる死刑を選択したのは量刑重きに失して不当である、というのである。
しかしながら、原判決は「同バス内に多数の乗客らが現在することを認識し、かつ同人らを焼死させることを予見しながら……あえて……火を放ち、云々」と判示しており、これに原判決の「当事者の主張に対する判断」中の「三殺意について」と題する部分、なかんずく、「被告人は、本件バス内の乗客らを焼死させることを予見しながら、あえて放火行為に及んだものとして本件バスへの放火の故意はもとより、その乗客らに対する殺意もあったと認められる。」との説示部分を併せ考えると、原判決は本件殺意をもって未必の故意と認定したものではなく、確定的故意と認定したものであることが明らかであり、しかも右認定は原審が取り調べた関係証拠上も正当として肯認することができる。そして、原判決が量刑の理由として説示しているところ、すなわち、本件は公共の輸送機関であるバスに放火し、乗り合わせていた市民のうち六名を火傷死させるなどして殺害し、うち一四名に対してはこれを殺害するに至らなかったものの、加療一週間ないし六か月間を要する火傷、熱傷等の傷害を負わせた凶悪重大事犯であって、特に非業の死を遂げた六名の無念さとその遺族の悲嘆や憤り及び将来にわたる労苦は推察を超えるものがあり、本件が都市生活に与えた恐怖と衝撃も大きく、本件犯行の動機形成に被害・追跡妄想が介在していること、被告人の生育歴及び家庭環境、被告人が本件犯行を心から反省していることなど被告人に有利な一切の事情を斟酌しても、被告人の刑責は重大であって、法律上の必要的な減軽事由がなければ、極刑をもって処断すべきところであるとした原判決の説示は正当であって、被告人が本件犯行時心神耗弱の状態にあったため、法律上の減軽をした上、被告人を無期懲役に処した原判決の量刑をもって重きに失し不当であると言うことはできない。論旨は理由がない。
よって、本件各控訴はいずれも理由がないから、刑訴法三九六条によりこれを棄却し、当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項但書により被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決をする。
(裁判長裁判官 山本茂 裁判官 渡邉一弘 裁判官 近江清勝)